2017-08

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その後のネパール

シンクネパールのブログ、2年近く休んでの再開であっただけにアプローチは少ない。
ネパールの地震の時は100件を超すアプローチがあったのに、それを知らずに何も書かないでいて失礼してしまった。
地震のその後、未だに復旧作業ははかどっていない。
復旧というより、むしろ救援活動が、一時ほどではないが続いている。

地震の震源地はカトマンズとポカラの中間のゴルカで、被害の大きかったところは、そこからカトマンズ盆地の北を通り、ランタン、ロールワリン、ソロ・クンブーと帯状に広がった山村である。
山地の村の建物は、地震には弱くちょっとした揺れで崩壊した。
ランタン村周辺は雪崩とその爆風で、小さな村であるが全滅したところもある。
ポカラも含めて、西の方、南のタライ平野とサブヒマラヤ地帯は全くと言っていいほど被害はない。

カトマンズの街は、旧王宮辺の昔の建物とレンガと土で建てた観光の対象となっていた寺院や塔などが大破、崩壊したが、街中の普通の建物はほとんど被害が出ていない。
街を自動車で走っていても、大方の場所では地震の痕跡は見受けない。
余震を恐れ、広場でテントでの避難生活をしている人たちもいるが、もうその必要性はなさそうである。
ただそこにいると食事はただでもらえる。

犠牲になられた方々に哀悼の意をささげます。
また被災され不自由な生活をされている方々にお見舞い申し上げます。
ただ今は、山地で被災しカトマンズなどに来ざるを得ず、そこで避難生活をしている人たちに、何らかの仕事を与えるということも、政府は考えたらよいのではないかと思える。
望むべくは、そうした人たちを復旧作業に当たらせ、仕事を与えたらどうなのだろうか。

だが政府のやっていることは、驚くことに、これを機会に外国に9,000億円の震災復興資金が必要だとして各国にそれを要請していることである。
そっちの方にばかり目が行っている。
地震の復興資金だけということであれば、その金額は桁が少なくも二桁は多いと私には思える。
ただ、鉄道を引くとか(私の試算では、鉄道の総延長距離1,400キロ、専用の水力発電所、車両、そして駅舎の建設などで5000億円となる)、それに道路、その他諸々のネパール全体のインフラの整備を行うということであれば、それは考えられなくもない数字である。
だが、ちょっと抵抗を感じる話である。
日本政府は早速320億円出すとプロポーズしている。
よいのかどうか私には分からない。

一ヵ月前、私が日本に来た時、盛んにギリシャのデフォルトの件が、テレビ、新聞で喧伝されていたが、それを聞いていて、何かネパールも共通する問題点があるように思えた。

2回目の制憲議会選挙は行われた

11月19日、選挙をボイコットしたマオイスト一派の選挙妨害もあったが、選挙は予定通り行われた。
投票率はほぼ70%だという。
私たちのネパール国土開発党は、国土開発政策の主張を目的としているので、制憲議会選挙には距離を置いていたのであったが、マオイストの州政策には問題があるとして、先ず勝ち目はないがこの選挙に参加した。


マオイスト(毛派)の主張する州割り
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私たちの主張する州割り (私たちは州といっても日本の「県」のような形で、もっと自治権をもったものを考えている)
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マオイストの州割りは、インドに接するタライ地帯をベルト状にマデッシといわれるインド系住民の二つの州とし、山岳地は種族別に分けた州としている。
こんなことをしたら、将来に向けて火種を蒔くようなものである、と私は思う。
11州の数も多すぎるし、幅の狭い長さが400キロメートルにも及ぶ州などは行政的にも問題がある。


何故こうなるのか、国防上の問題ではさらさらなく、住民に迎合し選挙に有利と考えてのこと以外に考えようがない。
国防といえばむしろ逆で、これではインドにとって全く好都合であろう。
下手をすれば、何か問題があった時、山岳地帯の州は干上がってしまう。
あるいは徐々にシッキムのようにもなりかねない。

今度の選挙で、私たちがかけた費用は印刷物も含めて約100万円であった。
4人の小選挙区からの立候補者と50人の比例代表制立候補者の名簿を選挙管理局に提出し、かけた日数は1週間ほどであった。
億単位の費用をかけ、国内すべての選挙区(240選挙区)から立候補者を立て、党員を総動員する大きな政党にとって、私たちは歯牙にもかけられない存在である。
例えばマオイストはカトマンズの一選挙区に7千万円の金を使ったという噂も飛びかわっている。
何せ、なぜかマオイストは今やネパール一の金持ち団体である。

ところで選挙は、数か所の地区でいざこざがあったが、先ずは順調に行われた。
当日は交通が全面的にストップとなり、カトマンズの街は空気が澄みわたり、ヒマラヤが40年前の昔のようにくっきり見えた。
あのころを思い出し懐かしい気分になった。
私たちは「開発」という言葉を多く使っているが、果たしてそれがいいことなのかどうか、よく考えながらその道を進んでいかなければならないことだと思っている。


小選挙区立候補者の選挙結果が一部出始めている。
前回第一党を占めたマオイストは振るわずネパール会議派が有利のようである。
それはそれでよいのだが、そうなるとマオイストはまた暴力に訴えることになるであろうと懸念する。
金と暴力、国民の政治意識の低さ、何かすべてが民主主義とはほど遠いような気がする。


ご苦労にも前の選挙の後、マオイストを持ち上げたアメリカの元大統領カーターは、お節介にも今またネパールに来ているが、彼や平和の使者を自称するノルウエー政府はこうした現実をどう受け止めるのであろうか。
そういえば日本の国連大使を務めたお偉さんも、ネパールの国の実体も知らず、当時マオイストの頭領と会い健闘を称えたが、私にすればいい加減してもらいたいという気持ちが強い。


ポカラのサランコットのホテル建設は、今まで土木と外構工事ばかりで、これから建物の建設に入る。
狭い稜線上での建設であるだけにいろいろな困難がつきまとう。
今年のモンスーンは雨が多く、10月20日まで悪天が続いた。
その後もダサインの祭り、ティハールの祭り、やれ選挙の交通妨害で自動車は止まるなどで休みの日ばかりが続いた。
落ち着いて工事が出来るようになるのは12月からである。

今年は雨が多かった分、ヒマラヤに雪が多く、今は毎日その美しい姿を見せている。



ポカラの飯場生活で、ブログすっかり休んでしまいました。
週に一度とはいかないまでも、2週間に一度は続けたいと思っています。
このブログに接して下さる方々に謝意を表し、今後ともよろしくとお願い申し上げます。

悪しき構図

カトマンズの水不足は深刻である。
ヒマラヤから流れ出る水が豊かだからといってカトマンズはその恩恵に浴さない。
何故ならカトマンズ盆地の近くを流れるヒマラヤから流れてくる川の標高は700メートルであるのに対し、カトマンズの標高は1,340メートルで、とてもポンプアップして使うというわけにはいかないからである。
そこでいきおい、盆地をとり巻く山からの水収支ということで現状はとどまっている。
昔、盆地内の人口が70万といわれたころは、不足がちではあってもそれで何とかなっていたが、今の5倍となった人口の需要にはとてもそれではまにあわない。

その位の読みはあって、25年前メラムチトいという盆地の北東部のヒマラヤの前山から水を引く計画が立てられ、その調査をノルウエー政府が請け負った。
そこで26キロメートルのトンネルを掘って、メラムチの川から水を引くという計画となった。
私はその水源辺を昔トレッキングしたとき、それほど大きな川でないことを知っていたので、7年前、季節別に3回訪れ水量を測った。

案の定、雨季の間はともかくそんなに沢山の水は流れていなかった。
4月のデータでは1.2㎥/sec.である。
例えて言えば、私の生地信州青木村の中を流れる川の水量にも及ばないほどである。
川に堰をつくってその川の水を引き込むというこの計画では、350万の人口に対して、まさに焼け石に水である。
それなのに湯水のようにお金を使って25年、工事は最初中国が請け負ったが、彼らは手を引き、今度はイタリアの業者がやるという。
完成はいつのことかわからない。
本当は上部に雨季の水を溜めるダムをつくって、稜線通しに開渠(一部短いトンネルが必要)でカトマンズにその水を持ってくる方法がとられるべきだと思う。

役に立たない計画を立てたノルウエーのコンサルタントにも腹が立つが、それを認めてカトマンズにはエレベーター付きのビルを建て、現地近くの村には立派な宿舎が並ぶ基地を造り、外国人専門家と称する人間を派遣して高級を払い、プロジェクトにどんどんお金を使わせている世界銀行にも腹が立つ。
そのしわ寄せは、ネパールの人たち一人一人の頭の上にのしかかってくるのである。
貧しさを一層貧しくする構図である。

話変わってポカラの飛行場を例に取ろう。

ポカラ新空港は中国がやるらしいが、以前その総予算は270億ネパールルピーと聞いたことがあり、半年ほど前このブログでもそのことにふれた。
私の試算では、新空港予定地はほとんど整地もされ、滑走路もすでにそれらしき形を取っているので、どの程度の空港建物をつくるのかは知らないが、200億円(以前は170億円といったと思うが)もあれば十分である。
その余計な負担(政治家の賄賂その他諸々)も、結局はネパールの人たち一人一人の頭の上にのしかかってくる。
こうした例は他にも幾つかある。

何故ネパールはこうした工事を独自でやらないのか。
今はネパールはでも、こうした工事が出来る人材も業者もそろっている。
しかし、問題はネパールの人たちが身近なお金儲けには奔走するが、独創性と自主性を持とうとしないことである。
どうしてこういうことになったのか、私はその原因が世銀やアジ銀、国連、外国政府のやり方にあると思っている。
早い話、その彼らのやり方によってネパール人がスポイルされ、今はどっちもどっちという状況を招いているように思える。
そしておかしな慈善団体も、それを助長しているように思える。

テーマ:ネパール - ジャンル:海外情報

11月19日の選挙は本当にあるのか

ここに来てまた雲行きが怪しくなってきた。
以前、会議派のギリジャ首相の時、選挙は期日通りにすると言っていて直前に延期した例がある。
今回もそんな感じがしなくもない。
聞くところによると、今の選挙実施暫定内閣も汚職がひどいという。
政党色なしの清廉潔白な内閣と思っていたがそうでないらしい。
閣僚は、政治家でない各庁省の次官級経験者たちであるが、彼らは汚職のエキスパートでもあって、諸認可事項で、大商人や諸団体からいかに見返りを取るか、そこら辺の手口に長けていてそれを地で行くらしい。
その結果が市場の物価上昇に跳ね返ってくる。
もう誰を信用してよいか判らない。

今考えると国王がいたときの方がよほど統制は取れていた。
王宮と政府のバランスもあり、そう独走は出来なかった。
そのタガが外れた今、それを牽制する機能が失われた。
マスコミに期待しても為政者たちは馬耳東風である。

それなのに、選挙で新しい何かを求めても、国民は若者も含めて、やれ会議派だ、統一共産党だ、マオイスト派だといっていて、その政党指導者たちが政治の場でただ言い争っているだけで何もしなくもまたその政党を選ぶ。
その結果政党指導者たちは、それに胡坐をかき権力を享受して私腹を肥やす。
これが今のネパールの民主主義だ。

話変わって、ギャネンドラ前国王が極西部で、水害にあった住民に物資の支給を含めて慈善活動を少しした。
これが物議をかもし、政党政治家たちはそれを非難している。
国王のこうした活動は遅きに失した感は多分にあるが、それはともかく、マオイストの二番手でこの3月まで首相をしていたバブラム・バッタライは「俺が今首相だったらギャネンドラを監獄に入れてやる」と豪語し、これも違った意味でもっと大きく物議をかもしている。

マオイストの頭領であるプラチャンダは、中国の得体のしれない組織の先鋒を担ぎ、大金をもらってその走狗となっているという。
ラサまで伸びた鉄道を、ヒマラヤ越えでカトマンズを経てルンビニまで引くのだという。
これにはインドは黙っていないだろうから、そう簡単にはいかないだろうが、私は中国にそんなことはしてもらいたくなくいという思いが強い。

マオイストはネパールにとって可か否か、次の選挙でそれは国民に問われることになるのであろう。
しかし、金や権力や暴力がまかり通る選挙では、それが国民の意志と良識を反映するものにはならない。
いずれ行われる選挙でも、そんな状況であれば、それが国と国民にとって必ずしも良い結果をもたらすとは限らない。
民主主義でないものを民主主義と呼ぶほど危険なことはない。

エジプトの騒乱で思うこと

先月末、3週間の予定で日本に来た。
停電はない、蛇口から水が出る、食事は美味しい、その他諸々、ネパールとは大違いである。
ところで、エジプトのニュースを見ていて思ったことは、ならばネパールではどうなのか。
それを考えるに当たって、最近のネパールの政治をちょっと振り返ってみる。

1990年
 民主化、会議派が圧倒的な票を得て組閣。1年で新憲法制定。
 しかし2年目頃から賄賂が横行する腐敗内閣に堕する。党内での政権のたらい回し。
1994年 
 共産党政権となる。10ヵ月の短命、会議派に政権戻る。
1996年 
 マオイスト〈毛派〉地下活動開始。
 2年後頃から武力(暴力?)闘争開始。警察官、毛派の兵士、市民合わせて14,000人がその犠牲となる。
2001年 
 王宮事件: 国王夫妻を含む10人の王族が、王宮内で射殺される。弟ギャネンドラ殿下が王位につく。
2002年 
 会議派党内の足の引っ張り合いで、首相デウバは議会を解散し(5月)、半年の期限を設けて総選挙に打って出る。
 (11月) 地方では毛派が暴れていて選挙は出来そうになく、デウバはさらに一年の選挙延期を表明。
 そこに至ってギャネンドラ国王は内閣を解散させ間接統治に入る。
 この時カトマンズの商店街は一斉に電気をつけそれを歓迎した。
 この政変も、政党政治家たちの反対で、政局の打開につながらなかった。
2005年 
 国王は、2年後の総選挙を約束し、直接統治に入る。会議派、統一共産党は、国王反対デモを繰り返す。
 しかし、一般市民はそれに対して冷ややかであった。
 そこで、その頃勢力を強めた非合法組織毛派と手を組み共闘。
2006年 
 そのデモが、国王を退陣に追い込むまでに発展。
 カトマンズであったこのデモも、有識者が多い、カトマンズの市中の人々は殆ど誰も参加していなかった。
2008年 
 制憲議会選挙。マオイストが第一党となる。最初の議会で国王退陣を決める。250年の王家終焉。
 国名も、ネパール民主連邦共和国となり、国体は立憲君主制から共和制となる。
 2年の期限付きであった制憲議会は、再三再四の期限延長を重ねたが、新憲法の制定ならず解散。
2013年 
 3月、毛派バブラム首相が辞任し最高裁判所長官を選挙実施暫定内閣の首相に据えた。
 2週間ほど前、この11月19日に再び制憲議会選挙をすることになった。

私は思う。1990年の民主化以来、政治は、党利党略、私利私欲以外の何ものでもなく、政党政治家たちは私腹を肥やすだけで、国家の計を立てるとか、国民生活に結びつくような政策を行うとかといったことは皆無に等しい。
制憲議会も、5年かけても新憲法は制定出来ず、結局は何もしなかったことに等しい結果となっている。
国民の中の不満は、怒りというより諦めの方向に向かってしまっている。
こうした状況にあって、軍が出てきて掌握してくれないかという話が時々出る。
軍政が30年も40年も続くのは問題であるが、そうでなかったら、私もそうしたことはあってよいのかなと思う。
私などは、いっそのことそれで立憲君主制に戻した方がネパールには似つかわしいと思う。
文民のもとにあるべき軍が出てくることは民主主義の逆行だということは100も承知であるが、それが2年とか5年の期限付きで、民主主義への道筋であれば、外国がとやかく言うことではないように思う。
ともかくその国にはその国の事情があり、その国に合った民主主義というものがあってよいのだと思う。

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プロフィール

宮原巍

Author:宮原巍
ネパールに住んで45年。
1934年、長野県青木村出身。
1968年トランス・ヒマラヤン・ツアー社(カトマンズ)、1969年ヒマラヤ観光開発株式会社(東京)を設立。その後、ホテル・エベレスト・ビューとホテル・ヒマラヤ・カトマンズを建設。
長年ネパールの観光事業に携わり、ついにはネパールの国籍を取得。
著書に『ヒマラヤの灯火』(文藝春秋刊)、『還暦のエベレスト』(山と渓谷社刊)がある。

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