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2018-11

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どうなっている? ネパールの政治

23日、6回目の首相任命議会も無駄に終わった。
議員はちゃんと給料をもらっているので、彼らには痛くもかゆくもないということか。
給料泥棒もいいところである。貧しいネパールがますます貧しくなる構図である。
制憲議会は2年の約束であった。それを議会は勝手に一年延ばした。
そしてもう3ヵ月が過ぎた。はたして憲法は制定されるのか。
もっとも、権力闘争の妥協の産物ということで、下手な憲法が出来るのであれば、出来ない方がまだましだと考えられなくもない

ネパールがこうなることを煽ったインドとアメリカ、EUの国々、そしてメディアの責任は重いと私は考えている。
彼らはここにきてダンマリだ。日本は最初から存在感がなかった。
ネパール最大の援助国として独自の発言があってもよかったと思う。どうして日本はこうも遠慮深いのか。
ともかく迫力に欠ける。
もっと大きな声で、世界を主導するぐらいの勢いで発言してもよいのではないか。
多分国連の会議でもそうなのであろう。アメリカに次ぐ資金拠出国であるのだから遠慮することなどさらさらない。
受け入れられなかったら拠出金を減らせばいい。鳩山さんの25%炭酸ガス排出削減ぐらいで大騒ぎしている国民も国民である。
やがてアジアの他の国々にも遅れをとろう。今までは経済だけでよかった。これからは政治に哲学が必要である。
国内では政策、国外では哲学が必要なのだと思う。この二つの欠如、日本とネパールは類似している。
何か生意気な言いようになってしまった。

(ドン・キホーテ続き)前回休みました、また再開します。

再びネパールへ

 一月末の横浜港は、まだ寒かった。
宮原はようやく貯めた五百ドル程を懐に、フランス籍のMM汽船で横浜港を発ちボンベイへ向かった。このとき彼は三十一歳になっていた。
「宮原、お前、会社も辞めてネパールに行くなんて気違いざただよ」
友人たちにそう言われながらの旅立ちであった。
学校の学部でも山登りでも大先輩で日本山岳会でも活躍していた金坂一郎をはじめ、数人の会社の仲間や友人、そして両親が波止場で見送ってくれた。     

両親は、ネパールがどこにあるかも知らず、母は、
「巍や、また会えるのかねぇ。お前は人様のためになんていっていたけれど、自分が立派でないと人様のためにはなれないよ。このことをよく肝に銘じて精進しなや」

「うん、分かった。この歳になってまだ心配かけてすみません」

「そんなことは心配しなくてもいい。ところでお金はちゃんと持っているのかい」

「うん、まあ何とか。母さんから貰ったお金が船代の足しになったので助かりました」

「そうかい、そりゃまあ良かった。達者でやりな」

そろそろ身を固めて社会的にも落ち着く年齢なのに、はっきりした見通しもなく風来坊みたいに旅立つことの後ろめたさが、もうひとつ宮原を憂鬱にしていた。
父は寡黙である。

「元気でやれや」

「ああ、分かった」

親子の絆は、言葉が少なければ少ないほどに身にしみる。かつて、この桟橋からは、南米などへの移民の人たちが多く旅立った。その多くの人たちは、肉親との別れをどのように受け止め耐えたのだろうか。
自分が立派に生きることが、そして他の人のためになることが、親への恩返しになるのだ。そう考えながらも、また皆と会えるのか、一抹の感傷が宮原を襲った。

 まもなく出航を知らせるドラが鳴った。船に戻ろうとする宮原に、

「おい宮原、いい年をして決めたことなのだから、中途半端で帰って来るんじゃねぇぞ」

金坂は励ましとも諌めともとれる言葉をかけ、懐から「餞別だ」といって二万円を取り出しそっと宮原に手渡した。大先輩である金坂から言われた言葉は、宮原自身の宣誓ともなった。
後年、宮原がホテル・エベレスト・ビューを建てるときにも、金坂は強くいい含めた。

「宮原、他人様のお金を預かるのだから、そこはきちんとしろよ。日大山岳部の名を汚すなよ。後はお前を信じる」

この言葉は、宮原の生活上の信条になった。
夕闇迫る頃になって、船は汽笛を鳴らすと音も無く岩壁を離れた。船上の生活は、一気に宮原を別な世界に追いやった。
翌朝目を覚ますと、船はしぶきを上げて、南へ南へと下っていた。空が明るい。二日目、九州の沿岸を離れて東シナ海に入ると日一日と暑さが増した。途中、香港、プノンペン、シンガポールと立ち寄り、セイロンを経てボンベイに着いた。
船中、ネパールに行く二人の若者に会った。加藤清行と渡辺紘夫であった。加藤はエベレストの近くのシェルパの根拠地、ナムチェ・バザールまで行くという。当時一人旅でそうした場所に行くということは稀有なことであった。彼には後々、ホテル建設のプロモーターとして一方ならず力を貸してもらうことになる。渡辺は、ネパールの、インド国境に近いラプティという所にある東京農大の先輩島田輝男がいる試験農場に行くのだという。渡辺は数ヵ月後、近くの川で事故にあい、帰らぬ人となった。
島田は、ネパールからわざわざボンベイまで渡辺を迎えにきていた。宮原は島田、渡辺と一両日ボンベイでいっしょに過ごし、そのあとは加藤と二人で、汽車でネパールに向かった。車中で一泊し、ネパールの国境に近い街パトナに着く。四年前は、カルカッタからこの街に来て、ここからDCⅢ型機でカトマンズに飛んだのであった。
宮原は、街なかの自転車屋で道具を借り、日本から分解して持ってきた自転車を組み立て、その自転車を持ってフェリーや汽車を乗り継ぎ、途中の駅でさらに一泊し翌日、ネパールとの国境の町ラクソールに着いた。ラクソールからは、宮原は自転車で、加藤は荷物と一緒にリキシャに乗って、穏やかな田舎道を行くという感じで国境を越えネパールに入った。ネパールの国境の町、ビルガンジはリキシャが往来する田舎町だった。

「加藤さん、なんか地の果てに来たという感じだね」

「うん、だけどこんなもんじゃない」

加藤は、初めての、僻地のようなところでの旅にも動じる風がない。
町中の宿を探し当てると、早速、宿泊費の交渉である。二人はインド上陸以来、何事につけても値切らないことには納得しないという習慣が身についてしまっていた。宿の主は、値切られたにしては、二階の道路に面した部屋を(一番いい部屋だ)といって提供してくれた。

(次回に続く)
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プロフィール

宮原巍

Author:宮原巍
ネパールに住んで45年。
1934年、長野県青木村出身。
1968年トランス・ヒマラヤン・ツアー社(カトマンズ)、1969年ヒマラヤ観光開発株式会社(東京)を設立。その後、ホテル・エベレスト・ビューとホテル・ヒマラヤ・カトマンズを建設。
長年ネパールの観光事業に携わり、ついにはネパールの国籍を取得。
著書に『ヒマラヤの灯火』(文藝春秋刊)、『還暦のエベレスト』(山と渓谷社刊)がある。

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