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2018-11

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ネパールの世相

政治に変化がないように、このところカトマンズの人々の生活も平穏といううか、表面上は相も変わらずである。
だがその陰で、無秩序な乱開発が進み国土が蝕まれていく感じだ。
政治に何を言っても無駄だという国民感情が、人々を個人の世界というか領域に引きこもらせ、人々は自分の生活を優先させ、無政府状態をいいことに、われ先にと利益追求にのみに走っている。

日本の若者たちが物質的豊かさと知的?遊戯と難も苦もない生活に溺れ、現状を肯定し内向しているように見えるが、ネパールの若者も、政治に対する失望から、社会を改革しようとする意欲も無く心が内面化しているように見える。
これからの国だというのに困った現象である。
18日の首相任命選挙も、5回目だというのにまた決まらないのではないかと憶測されている。
統一共産党は、また早々と棄権を表明した。もっとも統一共産党は風見鶏的なところがあるので何とも言えない。




(ドン・キホーテの続き)


登山や探検に興味を持ちながらも、学校を出てからずっと工場で働いていた宮原が、突然、(ネパールで、恵まれない生活をしている人たちのために、何か役立つような生き方をしたい)という。
それはまさに青天の霹靂というか、突然変異としか言いようのない変わりようだったからである。

やがて、石坂隊長はことば少なに、

「宮原、本気か?」

「本気のつもりです」

「何だい、そのつもりというのは」

と、少し大きな声で、厳しく宮原に問いただした。

「やるならやるで、やってみろ。だが、甘っちょろい考えだけは捨てろよ。大体、お前は甘っちょろいところがあるからな」

そう言い置いて、石坂隊長はキッチンテントの方に帰って行った。

実のところ、宮原自身、まだ自分の考えに自信が持てず、果たして実行するのか、自分にそれが出来るのかといった迷いがなかったわけではない。
だが、

(ネパールのために生きたい)

という使命感のようなものが、宮原の心を捉えはじめていたことだけは確かであった。

加えて、ヒマラヤの雄大な自然と、素朴で親切なネパールの人たちとの触れ合いが、宮原の心を強くネパールに惹きつけていた。

こうした思いに取りつかれた宮原にとって、目的の山の登頂に成功した感激も、ヒマラヤの北、草木とてないチベットに続く荒涼とした世界を旅したときの強烈な印象も今や遥か彼方に遠のいていた。
そして、再びネパールに来るにはどうすればよいか、そのことをしきりに考えようとしていたのだった。

石坂隊長との会話のあと、いっときの思索から解かれて気がつくと、西の空を燃え立つように染めていた茜色はいつしか消えていた。
先程までの子供たちの賑わいはそれぞれの家の中に吸い込まれ、そこかしこから聞こえていた夕暮れ時の人々のざわめきも、ねぐらを定めようとする鳥たちのさえずりも消えあたりはシーンと静まり返っていた。

ネパールの町のなんという穏やかさ、人々の生きる自然な姿、それらを思うにつけても宮原は、いま自分が決めようとしていることをゆるぎないものにしようと思った。
やがて町は紫紺の闇につつまれはじめた。

突如、宮原は静寂という湖の底に、深くふかく沈んでいくような寂しさを感じた。
静かに目をつぶる。宮原はこれと似た気持ちを、いつか何処かで味わったことがあると思った。

それは子供の頃、楽しみにしていた遠足が終わって家に帰り、疲れまどろみ夜になって、

「たかし、ご飯だよ」

と母に起こされ、いつの間にか暗くなった闇の中に、独りいる自分に気づいた時の寂しさに似ていると思った。

太平洋戦争がはじまって間もないあの頃、信州の田舎の学校の遠足といえば、わらじ履きであった。
近くの農家のおじさんに編んでもらった子供用のわらじを履き、小さな脚絆をまいて、予備のわらじ一足をリュックにくくりつけ隊列を組んで歩いたのだった。
宮原はそれ以後も、幾度か、そうした寂しさを味わったように思った。

(この寂しさは、とりもなおさず人生の寂しさでもあるのだろうか)

そんな思いが脳裏を走った。

(その寂しさに向き合って生きる)

ふと、寂しさとは生きることの規範ではないのかと思った。
宮原に言わせると、(この胸をしめつけるような寂しさと郷愁のようなものが、何かに向かって力の限り行動して
みたいという衝動に変わる)のだという。

哀愁に満ち、沈んだ気持ちの底から、希望の新芽が萠えいずるとでもいうのだろうか。



しばらくあって、宮原は口にした。

「俺は、きっとネパールにまた来る」

 彼は、その考えを実行に移した。日本に帰って、勉強のし直しと、技術者としての経験をさらに積んでネパール行きに備えることにした。

そして四年後、一九六六年(昭和四十一年)一月,ネパールへ発った。



(次回に続く)
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プロフィール

宮原巍

Author:宮原巍
ネパールに住んで45年。
1934年、長野県青木村出身。
1968年トランス・ヒマラヤン・ツアー社(カトマンズ)、1969年ヒマラヤ観光開発株式会社(東京)を設立。その後、ホテル・エベレスト・ビューとホテル・ヒマラヤ・カトマンズを建設。
長年ネパールの観光事業に携わり、ついにはネパールの国籍を取得。
著書に『ヒマラヤの灯火』(文藝春秋刊)、『還暦のエベレスト』(山と渓谷社刊)がある。

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