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2019-04

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二度の民主化とギリジャ・コイララ氏

ネパールは、1951年、そして1990年に一旦は民主化された歴史を持つ。
しかしこの2回とも、それに続くほぼ10年間、まったく同じような経過をたどって国王が政治にかかわる結果を招いた。
何故か、一言でいえばその2回とも、民主政治が腐敗と政党間、政党内の抗争を繰り返すばかりで国が混乱し、政治どころでない状況に陥ったからに他ならないと私は考えている。
実際に、この二つの民主化のプロセスで、そのほぼ10年間の間に、9回づつ内閣が変わったことでもそのことが伺える。
そして今回はすでに20年間になった。本来民主政治は国民のためになる筈であるが、それが一部の政党指導者と、上手に立ちまわる利にさとい人びとによって享受されるだけであるように見受けられる。

1990年、国王親政のパンチャーヤト政治から政党政治による議会政治に移ったあとの最初の選挙でネパール会議派は圧勝し、同党の単独内閣が成立した。
同党の総裁ギリジャ・コイララ氏は4回首相を務めた。
初めの一、二年はまあまあと思われたが、その後は、まさに政治腐敗ここにきわまれりという感じで、それはひどいものであった。
1950年代のことを私は良くは知らないが、1990年代では、その張本人がそのギリジャ氏である。
汚職は国王親政の時も無かったわけではない。
しかしそれより格段にひどいという印象を私は持った。
政治家がそうならば、官吏も上が上ならば我々もということで、末端に至るまで追従腐敗が起こり社会的モラルも大きく低下した。
ネパール人の人情はこのころから変わった。

ギリジャ氏の死亡記事で、「民主化の立役者」などと書かれていたが、彼が1990年の民主化後、立派な政治をしていればマオイストの跋扈も現在の政治的混乱も、そしてマオイストの暴力革命で一万四千人もの犠牲者を出すことはなかった、というのが私の見方である。
1990年の民主化後、ギリジャ氏はかつての同志,ガネッシュ・マン・シン氏やクリシュナ・プラサド・バッタライ氏らを排し、ネパール会議派の中でほとんど独裁体制をしいた。
一時、自分の党内の民主化もはかれないで、何で国の政治の民主化が出来るのかといった声もあった。
ついでに言えば、2006年の4月デモを「民衆の蜂起」とか「国王の圧政からの解放」とかメディアは持ちあげたが、あれは彼を含めた政治家たちの権力闘争であった。
現状の政治的混乱がそれを証明しているといったら言い過ぎであろうか。
だが、私はそう考える。

次回はそのあたりのことを記載したい。
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テーマ:国際政治 - ジャンル:政治・経済

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プロフィール

宮原巍

Author:宮原巍
ネパールに住んで45年。
1934年、長野県青木村出身。
1968年トランス・ヒマラヤン・ツアー社(カトマンズ)、1969年ヒマラヤ観光開発株式会社(東京)を設立。その後、ホテル・エベレスト・ビューとホテル・ヒマラヤ・カトマンズを建設。
長年ネパールの観光事業に携わり、ついにはネパールの国籍を取得。
著書に『ヒマラヤの灯火』(文藝春秋刊)、『還暦のエベレスト』(山と渓谷社刊)がある。

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