2010-09

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巷に雨が降るごとくわが心にも雨が降る

今年のネパールは雨が多かった。
一ヵ月前、日本に来る前も雨が多かったけれど、それ以後も雨が降り続いたという。
そんなことで、あちこちで土砂崩れがあり、ランタン、ツクチェなどへの道路も決壊し、従来行けたトレッキング出発地点まで自動車は入れない。
今までの経験で、9月に入っての雨は土砂崩れを起こす。
エベレスト地域へのトレッキングの出発地ルクラへの飛行便も、今年はとりわけキャンセルが多かったようである。

ルクラに飛行機が頻繁に飛ぶようになって30年、人身事故につながる事故はずっと無かったが、6年(?)前、雲をついての着陸強行で飛行場の手前に突っ込んだ事故があった。
ドイツ人のトレッカーが犠牲になった。それに次いで今年の事故は2回目である。
ただし今回はルクラ空港での事故ではなかった。飛行機はルクラ手前から悪天で引き返したのだったが、カトマンズ周辺も雲でカトマンズ空港に行けず、インド国境地帯のローカル空港に向かって、カトマンズの南、タライのトウモロコシ畑での不時着に失敗したらしい。ネパールでの飛行機事故は、そのすべてが悪天をついての飛行にある。一つアドバイスは、トレッキングは10月10日以後がいい。

政治に関しては、書くのもしんどい。
マオイストと統一共産党が連立を組むという話も出ている。いまさら共産主義か。
貧しさがそうさせるには違いないのだが、共産主義になったからといってネパールが豊かになるとは思えない。
それに共産主義ってやはり独裁的でないと体制が維持されない。
そうなったら物質的な貧しさの上に精神的な貧しさも覆いかぶさってくる、そんな気がしてならない。
ネパールの若者から言われた、「中国を見ろ」と、何をか言わんやである。
首相は相変わらず決まっていない。

(ドン・キホーテ続き)

家内工業局には、宮原が入る前、すでにドイツ政府の援助があり、旋盤やフライス盤など一通りの工作機械が揃っていて実習が出来るようになっていた。
他部門も含めて、七〇名ほどの研修生が、昼食代程度の金額ではあったが有給で研修を受けていた。
宮原の共同作業者は、ドイツがこの局に指導を行っていた時期に、研修員として二年間ドイツに派遣され帰ってきたばかりのシュレスタ氏がついてくれることになった。
彼は英語が堪能なばかりか、ドイツ語も少々、ネパール語、カトマンズ土着のネワール語、ヒンディ語を自由にあやつり、言語にひどく秀でていた。
ネパール語とネワール語はカナ文字字が一字違うだけなのに、まったく異なった言語である。
仕事は、ネパールに適応しそうな軽工業を十数種目あげ、その各々について、二ヵ月に一種目の企画書を完成させるということで、二年契約内のワーキング・プランを提出し、了承を得てその作業入った。
その種目は、プラスチックの各種成型、木工所、精米所、手漉き紙作業所への機械の導入計画、澱粉、石鹸、歯磨き粉、そして大豆加工をはじめとする農産物加工などであった。
企画書は、カトマンズにそのころすでにあった「アメリカン・ライブラリー」にある資料と、学校は違うが、同じ理工系に進んだ弟に連絡を取って、日本から取り寄せた技術書を参考に作成した。
内容は、極めて小規模な工場建設計画で、原料から製品になるまでの製造工程を示し、どんな機械が必要か、生産コストはいくらになるのかといったことであった。
でき上がった企画書の幾つかは、印刷に回され、家内工業のガイダンス・ブックとして地方に配布されるなどした。
企画書作りのこうした作業では、大学で工業化学と機械工学を学び、勤め先の工場での実地の経験が大いに役立った。
ときには、インドからの調査団と一緒に松脂の採集に行ったり、簡単な機械の据付にかり出されたりして、一年は無我夢中のうちに過ぎた。
その間に製紙工場の調査で、南のタライ平原へ出向いた。
また、手漉き紙の品質改良のため、山地に入ったこともあった。
多くの援助に関連する外国人は、ネパールに指導に来るのであるが、宮原はむしろ逆で、ネパールに学ぶことが多いようであった。
しかし、こうした作業を続けながらも、宮原は次第に自分のしていることに疑問を持つようになった。
それは作成した企画書が本当に役立つだろうかということであった。
幾つか作成した計画書の中で実現したものは、豆腐の製造とプラスチック成型、木工場など一、二種目であった。
一時、日本の友人の間では、
「宮原はカトマンズで豆腐屋をやっている」
と、噂が立った。
いまでこそ豆腐はネパールでも食べられるが、その草分けが宮原だったとは知られていない。

(次回に続く)
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プロフィール

宮原巍

Author:宮原巍
ネパールに住んで45年。
1934年、長野県青木村出身。
1968年トランス・ヒマラヤン・ツアー社(カトマンズ)、1969年ヒマラヤ観光開発株式会社(東京)を設立。その後、ホテル・エベレスト・ビューとホテル・ヒマラヤ・カトマンズを建設。
長年ネパールの観光事業に携わり、ついにはネパールの国籍を取得。
著書に『ヒマラヤの灯火』(文藝春秋刊)、『還暦のエベレスト』(山と渓谷社刊)がある。

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