2010-08

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ネパールと日本の政治

首相任命の議会は9月5日に延期された。
次期首相が決まらないままにもう2か月は過ぎた。
こうまで混乱するところをみれば、首相が決まったところで以後の政府がスムーズに機能するとは思えない。
一体制憲議会は何であったのかという疑問も出てくる。
こうした事態を反映し、旧体制であった、もう80歳を超える人たちが王制を復活させるための会合を持ったと聞く。
私は以前からネパールは立憲君主制がよいという意見であり、その考えを今も捨てきれずにいるが、それにしても、そうした人たちの動きに何か釈然としないものを感じる。
その一部の人たちは、2年前議会で王制廃止、共和制賛成と一回すでに自分たちの節操を曲げた人たちである。

1649年、英国は清教徒革命で国王を処刑し共和制を樹立、その後10年にして王政復古がなった史実はあるが、そのひそみ倣おうとでもいうのであろうか。
しかしそうした動きは国民の意思を反映したものでなくてはならず、一部の回顧主義者によって主導されるものではない筈である。
ただ、その会合に集まった一人に、カマール・タパ(この人は50才代)という人がいて、彼は王制廃止と共和制に関して、それは国民投票によって決めるべきだと以前から言っていた。私も同感である。
ただ私は外から来たネパール人なので、こうした問題で自分の意見を言うのは控えるべきだと考え、政治に参加しようというもくろみは、もっぱら国土発展のヴィジョンを語ることに限ってきた。
考えさせられるところである。

私が今望んでいることは、このまま憲法ができず(前回書いたが、政党間の権力闘争の妥協の産物のような憲法はつくらないでもらいたいという考えから)、それを契機に国民の総意が結集し、それが表に出るような動きがあってもらいたいということである。
日本に来て、まだ一週間、民主党の代表選挙に揺れる日本の政治をみて、ネパールなのか日本なのか、頭の中がこんがらかってしまう。


(ドン・キホーテ続き)呑気にこんなことを書いていてよいのかという反省もあり。

部屋に入って落ち着き、窓越しに太陽が赤い火の玉のようになって沈むのを眺めていると、外が騒がしい。
窓から顔を出して下を見ると、旅芸人の一座がやってきていた。
宮原は、その一座の看板娘らしき女性に眼をやって、ハッと一瞬胸の高鳴りを覚えた。
「加藤さん、あの子、ほら、僕がこの間話した初恋の彼女にすごくよく似ている」
「あ、そう」
 またかよといわんばかりに、そっけない返事が返ってきた。
 宮原は、こうして自分がネパールに来たのも、心のどこか片隅で、その彼女に失恋したことが原因の一つになっていると思っているところがある。
あの出会いは高校二年生の時であった。バス通学で隣村から乗る彼女としばしば目が合い、合わせまいとすればするほど、また目が合い、宮原はどぎまぎとして、その度に心ここに在らずといった感じになるのであった。
あの頃は県立の高校でも男女共学ではなく、宮原か通う上田高校は男子校であり、彼女の通う染谷高校は女子校だった。
夏休みの一日、隣村の同じ高校に通う者との野球の対抗試合で、隣村の小学校を訪れた際、校庭に面した教室でその彼女に会った。
教室には、他に数人の女学生がいて、彼女はオルガンを弾いていた。
皆、バス通学で顔だけは見知っていた。宮原の村から出かけていった男子数人は、そこで彼女たちに自己紹介をすることになった。
「あのぉ、青木村の宮原です」
宮原は、しどろもどろに自己紹介すると、女学生たちはなぜかくすくすっと笑った。
彼は母親と姉以外、女性と口を利くこともない環境で育った。それにあの頃、田舎では男の子が女の子と遊ぶなどということは皆無だった。
それだけに女学生の前に立っただけで上がってしまって声がかすれた。
その後、彼女たちからも自己紹介を受けた。みな美人に見えた。一級上の人たちもいた。
やがて、最後になって、例の彼女は、
「岡の田中玲子です。染谷の二年生です」
 と、凛として、涼やかな声で自分を紹介した。
その日のプログラムは野球の後、皆で茶話会をすることになっていた。隣村とはいえ、最奥の村にくらべると、上田市に近い浦里村は全てに垢抜けいる。こうした企画も、浦里村の連中のしたことであった。
それから数ヵ月して、青木村の上野忠雄が、
「宮原、手紙を書くんだったら、俺持っていってやるぞ」
「誰に」
「しらばくれるなよ、田中玲子に決まっているじゃねぇか」
上野の言葉にそそのかされるようにして、ついに宮原はラブレターを書くことにした。
その頃、こうしたことが学校に知られれば、退学にならないまでも一週間の停学である。
だが、上野の話をよく聞くと、彼も、彼女と口を利けるような立場ではないらしい。
彼女の家の近くからは、同学年で校内放送を受け持つなどして、校内でとみに活躍している南沢学と、数学が得意で牛乳瓶の底のような度の強い眼鏡をかけた小池林治がいた。
「南沢、この手紙届けてくれるか」
「悪いな、俺、それできないよ」
「水臭いじゃないか」
「いや、しばらく前、ある上級生の手紙持っていって突っ返されたばかりなんだ」
「じゃ、小池に頼むか」
 小池が手紙を届けてくれた日の夕方、彼から電話を受けた。
「手紙、最初、受け取りを渋っていたけれど、ともかく渡したよ」
その連絡を受けただけで、宮原は足ががくがく震え、自宅の電話室から飛び出して外に行き、田んぼの畔まで走りそこで心を落ち着けた。
まだ村に何本としか電話の無い時代で、電話のある家は、家の中に半畳ぐらいの大きさの電話室というものがあった。
それから三年間、文通と真田城跡の散歩程度であったが、人生を語り合う機会を持った。
だが、初恋は、春の淡雪のように果かなく消えた。宮原はいつ結婚できるか分からないまだ学生である。
東京と信州とに離れての手紙のやり取りでは何の変化も起きなかった。宮原は幼稚だった。
恋を育てることも知らなかった。
正月に帰省した或る日、城址の石垣を背に、
「私たち、別れた方がいいみたい。貴方は登山のことばかり考えているようだし、私など傍にいない方がいいんじゃないかしら」
と、少しばかりお姉さんの彼女にそう言われた。
あの日、雪が降っていて、手をふれた石垣はひどく冷たかった。そんな遠い日の思いにふけると異国での旅情が一層身にしみた。
旅芸人の一座は、この宿の何処かに落ち着いたらしく、あたりはまた静けさを取り戻した。それにしても、想念の世界と目の前の現実とは何とかけ離れていることであろうか。
人通りの少なくなった通りでは、皮膚病で毛が抜け落ちた犬が、力なく悲しそうに吠えていた。

(次回に続く)


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プロフィール

宮原巍

Author:宮原巍
ネパールに住んで45年。
1934年、長野県青木村出身。
1968年トランス・ヒマラヤン・ツアー社(カトマンズ)、1969年ヒマラヤ観光開発株式会社(東京)を設立。その後、ホテル・エベレスト・ビューとホテル・ヒマラヤ・カトマンズを建設。
長年ネパールの観光事業に携わり、ついにはネパールの国籍を取得。
著書に『ヒマラヤの灯火』(文藝春秋刊)、『還暦のエベレスト』(山と渓谷社刊)がある。

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