2010-06

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インドの対応

ネパールを語るとき、インドを抜きにしては語れない。
それは経済、政治、そして文化面など、すべての面についていえる。

政治についていえば、ラナ家世襲の専制政治が終焉したのは1951年である。
この時もインドの後押しと、ラナ家への圧力(説得)があってその変革がなされた。
話が飛んで、1996年毛派が活動をはじめ、2000年頃より武力(暴力)闘争が激しくなり、ネパール政府が躍起となって鎮圧に動いていたころ、インドはそのマオイストの幹部のシェルターとなって彼らをインド国内にかくまった。
私はその頃、インドは口ではテロ撲滅をいいながら、裏ではそうした動きをすることに、冗談じゃないという思いがあった。

インドは何故ネパールの王制を嫌ったのか、その理由がよく分からない。一説にはビレンドラ前国王が、デリーでインドの何かの招待を断ったとか、またインドのソニア会議派総裁(ラジブ・ガンジー前首相夫人、イタリア人)がネパールに来たとき、パシュパティ・ヒンズー寺院への参詣を、彼女がヒンズー教徒でないという理由で許可しなかったとか、いろいろ言われている。
だがそんな個人的なことで国の方針が動くとも思えない。

2005年11月、インドの斡旋でネパール会議派、統一共産党、そしてインドがかくまっていた毛派の幹部がデーリーで会談し、反王制ということで共闘を約束した。
それにはいろいろな条件があったのだが、それはともかく、仲立ちをしたインドは王制打倒まで視野に入れていたのであろうか。
今頃になって(数カ月前)インドは王制を廃止させたのはインドの間違いであったというようなことをいっている。
特に最近インド国内でも毛派の動きが尖鋭化し、今はネパールの毛派の動きを強くけん制するようになった。
これがまたネパールの政治の混乱に拍車をかけている。
そもそもデリーでの会談は不愉快でもあったが、私には、決して良い結果にならないと思いがあった。
ただ、それが良かったのか悪かったのか、それを歴史が判断するまでには至っていない。
しかし、現状でいうならば、決して良かったとはいえないと思っている。
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プロフィール

宮原巍

Author:宮原巍
ネパールに住んで45年。
1934年、長野県青木村出身。
1968年トランス・ヒマラヤン・ツアー社(カトマンズ)、1969年ヒマラヤ観光開発株式会社(東京)を設立。その後、ホテル・エベレスト・ビューとホテル・ヒマラヤ・カトマンズを建設。
長年ネパールの観光事業に携わり、ついにはネパールの国籍を取得。
著書に『ヒマラヤの灯火』(文藝春秋刊)、『還暦のエベレスト』(山と渓谷社刊)がある。

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